地区の紹介

統計

面積
8.07㎢
人口
952人
世帯
406世帯

※人口は令和3年10月末のデータです。

地理

丸森町北東部、阿武隈川右岸、雉子尾川流域。

歴史

「金山の歴史」…金山に人が住み始めたのは古く、約6~7000年前の縄文時代前期にさかのぼる。
この人びとは台町の丘のうえに竪穴住居をつくり、毎日、狩や川猟などを行って生活をしていた。4~5000年前の縄文中期になると、生活の舞台は日照田へと移ったようである。
そして約2000年前の弥生式時代になると、下片山、石神などの低地では、水田稲作の農業が行われだし、生活も大きく変化をみた。そして、時の流れとともに支配者、被支配者の階級も誕生する。
こうして生じた集団は、やがて巨大化し、統一的まとまりをもった部落国家としての形をととのえてゆく。これら集団を統合する首長は土地、人民を率いて大和朝廷の勢力と連合提携し、やがて「伊具国造(いぐのくにのみやつこ)」と称した。いまこれら豪族とその一族が葬られた墓が台町古墳群と考えられている。
大化改新が断行されると、伊具国は陸奥国の中の伊具郡として再編されることになる。その長は、そのまま郡司として任用されたものと見られるが、豪族の支配下にあった農民は独立し、班田農民として生きることになる。新田地区の条里遺構はそれを裏付けるものといえるであろう。
役所は各地域に群立する豪族との均衝を配慮し、群の中央の角田市枝野群山に計画されたものと思われる。
奈良時代に入ると地方政治は一段と整備され、杵葉(きねは)、広伴(ひろとも)、静戸(しづりべ)、麻績(おうみ)、余戸(あまるべ)の五郷に細分化し統治されたものとみられるが、金山がいずれの郷に属したかは明らかでない。
平安時代も末になると律令政治も乱れ、荘園の形成も一段と進み、武士の勢力もいよいよ強大になる。
このころ伊具郡に勢力をふるったのは、国司に従って下向した武士の伊具十郎である。これらと金山の関係は、この時点においても以前不明というよりほかない。
金山が古文書の中で確認されるのは、鎌倉時代も末の元享3年(1323)の工藤貞行譲状からである。この一礼は、当時の金山を如実に物語ってくれている。すなわち、伊具庄の中の一単位の、保に属していたこと、鎌倉幕府の重臣とみられる工藤の支配地であること、また、むらの規模がどの範囲のものであるかなど、示唆するものが多い。そして片山村の存在は、この地域に残る遺跡、遺物からも傍証できる。
とにかく、この地域が古墳時代以降も引続き政治、経済、文化の中の心地であったといえよう。
つぎの南北朝時代には一時期結城の支配下に属し、伊具小太郎末彦が金山城主として、ここに據(よ)ったとも伝えられるが真偽のほどは判然としない。
戦国時代末の天正4年(1576)から12年(1584)にかけての伊達と相馬のこの地の攻防は熾烈を極めたが、中島宗求らの奮戦により、遂に金山城の奪取に成功、伊達政宗はこの戦に最も手柄のあった智勇兼備の中島に金山城と金山本郷、大内、伊達の三邑2000石を与え、相馬へのおさえとした。中島は直ちに相馬に向け城の改築と、これに付随する町場づくりに着手し、ここに現在の金山の基礎がほぼ完成した。行政組織や職制については、仙台藩の制度を範とし、百姓、町人への支配は、御条目などに随い、他と何ら変るところがなかった。
ところで、中島はこの時以後、邑主として連綿と世襲し、明治維新に至るまで二七六年もの長い間、変ることがなかった。したがって、君臣、領民との緊密度はかなり深かったといえる。すなわち、繭、絹の生成を奨励して、織物の技術を導入し、これを金山紬(仙台紬とも称す)として名をなさしめたし、四・10の日の六齋市には、自然薯を売り出し名声を高めるなど、殖産に力を注いだことからも理解できる。また邑主の中には仙台藩政に参画する人物の輩出を見るなど特筆できる。
なかでも、幕末の邑主虎之介は家臣たちに文武を奨励、自らも「護国論」を著わして、他の邑主らとともに藩の進むべき道を説くなど、今に讃えられる事蹟を残している。
明治元年(1868)戊辰の役には政府軍を領内大内旗巻にむかえ撃って破れ、一時的にせよ南部藩の支配下におかれる。この時の混乱ぶりは言語に絶するものがあったと今も語り伝えられている。
その後、明治の新政がつぎつぎと断行されていくが、明治10年までの間の帰属は南部藩から白石県、角田県、仙台県、宮城県、磐前(いわさき)県、そして再び宮城県へとめまぐるしく替わり、定まるところのない政治が続いた。この間、金山本郷、大内村、伊出村が連合戸長役場での政治を行ったが、明治22年(1889)市町村制の施行により金山村となった。
その後、佐野製糸工場が始動したことから人口も急増したため、明治30年(1897)には日本最小規模の町が誕生した。これより以後、町民の間では「小さい町のデッカイ夢」を合言葉として生き続けることになる。この期の金山の歴史は佐野の歴史であり、佐野の歴史はすなわち金山の歴史であったといっても過言ではあるまい。
つぎの昭和初期は経済不況による混乱、そして佐野製糸工場の閉鎖、解体、そして10年代は戦争に揺れた時代であり、20年代は戦後処理、そして昭和29年(1957)には町村合併促進法により丸森町金山となった。
30年代からは日本の高度成長とともに金山にもその余波がおしよせ、これまで農業一辺倒でやってきた生活も職業も多様化の道をたどる。40年代にいたってこれを直視した星公民館長はコミュニティーつくりの必要性を強調、村おこしの提唱、活性化をめざす。この一端をモデルコミュニティーの県指定や、金山開邑400年祭典に求めたもので、その基本に流れるものは地区民の融和、親睦にあると位置づけることができる。
われら地区民一同は先人たちの遺した輝かしい歴史を誇とするとともに、明日への展望を模索し続け、先人に負けないよりよい歴史を、後世に残して行きたいものである。
~丸森町「金山の歴史散歩」より抜粋~

特徴

「石垣に 昔を偲ぶ 金山城」(金山ふるさとかるた)
◆お舘山:標高117m
◆別称:臥牛城(がぎゅうじょう)・金山城・金山要害
◆築城:永禄8年(1565年)と言われています。
◆石垣:1588年頃に築かれたものとみられ、打込みはぎ工法で作られています。

金山城址頂上大手門附近、当時の山城にしては貴重な石垣と言われています。かつての姿を今に残す、金山の歴史的遺産です。

金山城址
金山城址
胸像
胸像

金山地区の年間イベント

  • 01
    新春の集い
  • 02
    ごみの分別講習会
  • 03
    教養講座講演会
  • 04
    定例総会
  • 05
  • 06
    道端花壇
    園芸教室
    地区民大運動会
  • 07
  • 08
    ふるさと夏祭り
    花火大会
  • 09
    金山地区敬老会
  • 10
    道端花壇
    園芸教室
    遠足
  • 11
    豊穣祭
    ミニ文化祭
  • 12