大張の史跡・名所の紹介

枯露里(ころり)さん

看板
枯露里さんの写真

由来は、「健康で長生きしたい、自然の内に大往生したい人間の切なる願いを聞き入れてもらえる」「延命安楽往生にご利益あり」とされています。
平成24年7月に祠が完成し翌年1月には、お賽銭箱が備わりました。その後、参道を整備し桜の苗木も植えられ、4月には、看板が立てられました。

硯石(すずりいし)

すずりいしの写真
すずりいしの写真2

堂山の山頂に、観請建立をした大満虚空蔵大菩薩様は、霊験あらたな修験場であり、女人禁制で女の人たちは登山することが禁じられておりました。
日増しに参拝者が多くなり、この地硯石に自然にたまった水を使い願い事を書認め一町「約110メートル」に花立坂があり、ここで花などと一緒に供え捧げ参拝したと言い伝えられております。また現在は道路整備、農地改良により昔の面影はありません。
花立坂は今は庚申坂(または金剛塚)とも言われております。

百々目木(どうめき)の滝

看板
滝の様子

明治15年頃、今の国道349号線に丸森より梁川に通ずる道路をつくることになりましたが、地形的に山が多く、急で険しいので、囚人を連れてきて工事をさせることになりました。
囚人の腰にはをつけて逃げられないようにしていたそうですが、囚人の一人が逃げ出してしまいました。その囚人を捕まえて、殺した場所が橋の上だったので、この橋を「止め橋」と名付け、いつの間にか「止め橋」は「百々目木橋」と呼ばれるようになりました。

旗立て石

旗たて石

源頼義、義家親子に関する言い伝えとして福島県の霊山に住んで居た武将、橘墨虎との連絡合図に、この石に旗をたてて連絡し合ったという伝説があります。

皮張石

皮張石
皮張石2

大張は以前は大蔵と川張に分かれていまいした。川張は小野篁が当地方を荒すいのししを退治し、その皮を石に張ったことから「皮張り」というようになり、それが後に川張と書かれるようになったといわれています。「皮張石」、鏃やじりを砥いだ「砥石」、いのししの首を埋めたといわれる「猪が首」の名が今に残されている。
明治22年、大蔵・川張が合併して大張村となり、さらに昭和29年丸森町となりました。

沢尻の棚田

沢尻の棚田
沢尻の棚田2

沢尻の棚田は総面積4.1ha平均勾配1/8で近世(江戸時代)~現代にかけて地区の人々が僅少な田、荒れ地を、鍬、もっこのみ、馬等を使用し人畜一体となって石垣を積み重ね現在の姿に整備したもので、天水、湧水を利用し、堆肥等を入れた有機農業を推進している。
標高220メートルから一気に1.4kmの距離で阿武隈へ川沿いに開墾された地区でもあり、大雨が降ると瞬時に濁流となって川に流れこむ。水田の持つ保水機能に浄化及び水害の発生を未然に防止し、石垣等人の手による技が、周辺の山々に溶込み優美な景観をなしている。
環境に対する重要性と歴史を理解し、後世に伝えていかなければなりません。

大満虚空蔵大菩薩

大満虚空蔵大菩薩

嵯峨天皇の弘仁元年、3メートルもある大猪が、村内はおろか近隣の村々の田畑を荒らして人々が困っていた。これを退治せんと京より、小野篁が東走する大猪を当地に追い詰めて、虚空蔵様の御力を借りて退治した。
因って此処に霊象を安置し、虚空蔵菩薩を勧請なされた。しかし後に大蔵寺を建立し、虚空蔵堂に、本尊虚空蔵菩薩を安置し、その跡に建立されたのが、この大満虚空蔵大菩薩の創建であると伝えられる。

宇賀神(うかのかみ)

宇賀神

現在の宇賀石の地名の語源となった宇賀神は食物を司る神様で、古事記では、「宇迦之御魂神」とあり日本書記では「食 魂神」の名で出ている。又、宇賀神の長者屋敷跡であったと史書に記されています。

庚申塚(こうしんつか)

庚申さん

庚申さんとは、中国から伝わる古い信仰から作られ、60日に1度だけめぐってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人が寝ているすきに、体の中にいるさんしという虫が天にのぼって、天帝にその人の罪を告げるので、寿命を縮められてしまうといわれていました。
そのため、人々は庚申の日は、皆で集まり飲み食いしながら夜中眠らないようにした
ということです。庚申さんは農業の神様としても信仰され農作業の順調や豊作を祈願します。

ホイホイ石

ホイホイ石

昔、夜にこの場所を通るとホイホイ、ホイホイ、と女の泣き声が聞こえた。
この噂を聞いたある侍が「俺がその正体を確かめてやる」と、いざ!という時の身支度をして夜にこの場所にきてみた。真夜中になるとどこからともなく、ホイホイ、ホイホイという泣き声が聞こえてきた。侍は刀の柄に手を掛け、その泣き声のする方に寄って見ると道端の大きな石が泣いていた。侍が石を目掛け居合抜きで切りつけると「ギャー」という声がして泣き声が止んだ。次の日、村の人達が石のところへ行ってみると石に刀傷が入っていた。
以後このことがあってから泣き声がしなくなりこの石を「ホイホイ石」と呼ぶようになり、現在ついている傷は侍が切りつけた刀傷であるといわれています。

八島下野(やしましもずけ)の碑

八島下野の碑

慶長5年(1600年)7月、伊達正宗は上杉氏所領の白石城を攻略した時に、伊達勢は、近辺の士豪たちに加勢を求めた。これに応じたのが、耕野、大蔵、川張3ヶ村の馬上十一騎槍鉄砲150人の者共であった。この馬上十一騎槍鉄砲150人の者共は、白石城攻めに抜群の働きをし、さらに、伊達領境を固める為の番所屋敷を提供するなどするなど藩の為に尽力したと言われその功により3ヶ村は藩の蔵入地(直轄地)とし、年貢や賦役について優遇される事となった。しかし、寛永6年(1629年)3ヶ村の蔵入地が藩から佐藤甚十郎の知行地になることになった際、これに反対した3ヶ村の者共は、川張村の百姓八島下野を主立にして、城下の大橋のたもとで、正宗に直訴をした。そして、それが認められて元通り藩の蔵入地とされた。その時の功績を称えて、後世に伝えるため建てられた碑。

柳剛流(りゅうごうりゅう)

柳剛流

(流名の由来・岸辺の柳が強い風で川面を打っているのを見た事からとされる。)

日本の古武道の流派で、岡田寄良(1765年~1826年)が開いた。剣術、居合、薙刀術なぎなたじゅつ、突杖(杖術)、柔術を含んでいて、すねに打ち込む(臑すね斬り)ことを特徴とする流派として知られる。剣術は、やはり特徴として最初の形から足への攻撃がある事が特徴である。竹刀稽古を重視し、面小手等の防具以外に独自の臑すね当あてをつけた。
2代目となった岡田信忠は、元々仙台藩の石川家の家臣であったためその後仙台藩へ帰り、角田で柳剛流を教えた。

柳剛流(りゅうごうりゅう)5代 大槻先生頌徳(しょうとく)碑

大槻先生頌徳碑

大槻先生は生まれが川張字槌屋25(現佐藤典雄様)より大蔵字四本松55(大槻敦司様)宅に婿養子になり柳剛流5代目を名乗り数々の功績を称えている石碑です。

前田館跡

前田館跡
前田館跡2

慶長5年(1600年)伊達正宗は白石城を攻略した時に、伊達勢は、近辺の士豪達に加勢を求めた。これに応じたのが、耕野、大蔵、川張3ヶ村の馬上十一騎槍鉄砲百五十人の者共であった。その、馬上十一騎槍鉄砲百五十人の陣地として提供された番所屋敷が前田館ではないかと言われ、その跡ではと推定される。
※同じように、5区の遠ノ倉にも館跡がある。

薬師堂

薬師堂

大張にも「隠れキリシタン」がいて、その観音様が「子安観音」で「マリア観音」であったと言われ、昔、この観音様は追訴場(おいそば)のドダイラと呼ばれる所に祀られていた。藩政時代、この地区にはキリシタンの信者がおり、この観音様を「マリア観音」として祀っていた。それは、お上のキリシタン弾圧が厳しくなり、人々はマリア観音を薬師堂に「子安観音」として祀るようになった。この薬師様は、飯坂の大鳥城主佐藤荘司元治の長男秀信が、大張に移り住んだ時に所持して来たもので、佐藤氏の守り本尊という。大張地区は飯坂佐藤氏の末裔なので、一族の守り本尊と合祀(ごうし)されたマリア観音は、村々からより厚い信仰を受ける事になった。

七郎館跡

七郎館跡
七郎館跡2

文治5年(1189年)源頼朝の奥州藤原攻めの時、藤原の一族信夫の佐藤元治(飯坂大鳥城主)は、一族の存亡を賭けて頼朝軍を迎え撃った。佐藤元治の庶長子ちかしちょうし(妾の長男)に片足の不自由な七郎秀信という者がおり、不具の身で虜とりことなり恥を受けるよりは、逃れて身を全うするようにと摺上すりかみ川を舟で下らせた。七郎は流れに従って阿武隈川に出て、川張館地内に小屋を建てて住んだ。今、下小屋しもごやの名があるのはこの為である。後に、西方の小丘に小屋を建てて「七郎館」と称す。
(国道349号大張地区の阿武隈川左岸、下小屋から登った所)
 ※この地に佐藤姓の多いのは、皆、七郎秀信の末裔まつえいであるといわれている。

童子墓

童子墓
童子墓2

大張の川張地区に、佐藤姓の元祖と言われる佐藤七郎秀信が、源頼朝との戦いに巻き込まれない為、信夫飯坂から弟の治清はるきよと老若男女数十名の守りをつけ逃げた。そして、半年に及ぶ逃亡の長旅と食べ物も満足に取れない為に身体の弱い子供たちは旅の途中で死ぬ者もあった。やがて、大張の地に落ち着くことになった七郎秀信一行は、死んだ子供の遺骨をこの地に葬り、あの世での幸せを祈ったという。その埋葬した墓が童子墓で、高さ35cm位で4~5基あるそうす。

八大龍王尊

八大龍王尊

「蛇神様」とも言われ、昔から大張は耕地が少なく、山畑の多いこの地区の農家は米麦の他、養蚕などの副業の収入がなければ生計がなり立ちませんでした。それだけに養蚕に対する思い込みは真剣で、養蚕で恐ろしい敵は、鼠で、鼠を食べる蛇を大事にしようと、人々はお酒や穀物を奉納して崇めたそうです。
奉納するため建てたお堂が八大龍王尊。

庚申さん

庚申さん

庚申さんとは、中国から伝わる古い信仰から作られ、60日に1度だけめぐってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人が寝ているすきに、体の中に居る三し(さんし)と言う虫が天に昇って、天帝にその人の罪を告げるので、寿命を縮められてしまうと言われていました。
その為、人々は庚申の日には、皆で集まり飲み食いをしながら夜中に眠らないようにしたと言う事です。
庚申さんは農業の神様としても信仰され農作業の順調や豊作を祈願しました。

砥石

砥石

嵯峨天皇の弘仁元年、背に苔がむし、松や杉が生えている3メートルもある大猪が住んでいて、その大猪は、村内はおろか近隣の村々の田畑を荒らして人々を困らせていた。これを退治せんと京より、小野篁が、天皇の命をうけて、番二、番三という二人の猟師を引き連れ下向し、虚空蔵様の御力を借りて、伊具の山中で退治した。
 その時に使用した鏃を研いたとされる石が「砥石」である。大猪の皮をはいで張り付けた石が「川張石」である。

大満虚空蔵尊

大満虚空蔵尊
大満虚空蔵尊2

 西暦紀元810年、今より1188年前嵯峨天皇の御代、平安の都今の京都に、大猪がどこからともなく現れ、その形まことに異様で、皮膚一面にコケを生やし、その上に頭には松の木が立ち、ものすごい形相でした。その猪が大暴れに暴れ周り、大いに人々を悩ましたのでした。時の武官が退治に向かいましたが、なかなか退治できません時のみかど嵯峨天皇は天皇のおことばを発せられ「これはただの獣ではなく霊獣であろう。退治したならば、必ず塔を立て供養するであろう」と願をたてられ、小野篁卿に守り本尊として身につける仏の3寸3分の虚空蔵菩薩の尊像を、お授けになりました。
 小野篁卿は、尊像を、髪を頭の上に束ね、その中に収め退治に向かい、遠く陸奥の国、伊具の山中でこれを退治いたしました。小野篁卿は、今の犬卒塔婆に陣を敷いて、番二と番三の兄弟の狩人を案内人として、大蔵の山中で、ついに大猪を一矢のもとに退治したのであります。
 その後天皇のお言葉により、今の堂山に福田堂を立て、大満虚空蔵大菩薩をお祀りし、天下泰平万民福来を祈願したのであります。